散るろぐ

ここが僕のアナザースカイ

ブログが書けない

なにも書く気にならないよ。

はてな村殺人事件も、その一因なのだけど、それだけじゃなくて、なんというか、昨今のインターネットを覆いつくす、リアルパワーとでも言うべき雰囲気に呑まれてるんだ。

むかし、ジェイコンがのちに盗まれることになるチャリで通勤してたころ、はてな村界隈では、ちょっと半端ないヤツが半裸で、手斧いっぽん腰にブラさげて歩いていた。

それでも、とくに問題なかったんだよ。そもそも、そういうカルチャーだったんだ。ジェイコンは、社会に馴染めなくて、インターネットにしか居場所がないような、そんなヤツらが話せる場所があってもいい、みたいな文脈で、はてな村を語っていたことがある。

ちなみにジェイコンは、はてなの創業者のこと。

そんな潮目が変わったのは、はてな村役場が上場を第一義にして、誹謗中傷する村人を、垢バンしはじめたときだと思う。僕は、相手の気持ちを察する紳士だから、はてな村役場の気持ちも理解して、しょうがないよね、時代だよね、と思ったのをよく覚えている。

同時に、なにか大事なモノを失ったような喪失感もあった。だから、一部の村人は、とうぜん持つべき権利を、理不尽に暴力で奪われた、そんな怒りを感じたとしても不思議じゃない。

結局のところ、はてな村のカルチャーというのは、マイノリティの声を踏み台にして、クネクネ考えてみましょう、という思考実験だったように思う。

だから、結婚、出産という祝辞に、野糞に熨斗を巻いて投げつける、というような蛮行がなされても、はてな村役場は、それを傍観する第三者だった。

幼かった僕は、結婚したり、出産したりしたときは、必ず、おめでとうと言わなければならない、言わなければ普通の人間ではない、という価値観にとらわれていたから、ただただ、震えるしかなかった。

一方で、アイツは普通ではない、普通のことができない。そんなコンテクストで語られる「ふつう」は、マイノリティを排除し、価値観の多様性を認めない。大多数のひとができる「ふつう」を、できない者をゆるさない。それが社会の現実だと思う。

だけど、いろんな事情を知り、さまざまな人の声を聞けば、僕の考える「ふつう」は、僕にとっての常識でしかなくて、つまり、僕の知る、はてな村は、そんな声に耳をすます場所だった。

普通の村民であることを求められる、はてな村は、もうただの過疎の村になった。そして、一般社会のふつうのルールが守れないヤツは、名前を奪われた。

ふつうのルールでしか生きられないインターネットは、ふつうの社会と変わらない。金と人脈、そして知恵をもつ者だけが生きる世界。

そこで僕の存在は忘れさられ、ただ朽ち果てていく。もう、なにもしゃべる気にならない。